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  当集会に集っているあるクリスチャン女性の証し

 

  可愛がってくれていた伯父が突然亡くなり、人間の死に初めて直面したのは、中学生の

終わり頃のことでした。まるで眠っているように目の前に横たわっている伯父は大声で

呼んでも何も答えてはくれません。その時、伯父はもうここにはいないんだと強く感じ、

同じように自分もいつかは死ぬんだと思うと、私は急に不安になってきました。

  人間はどこから来て、何のために生き死んだらどこへ行くのだろうという疑問が心の中を

一杯にしてしまいました。果てしない宇宙の長い歴史の中で、私は偶然に生まれ、死を

もって終わってしまうだけの存在なのだろうか。人生の意味を知りたいと求めつつ悩む日々

が続きました。高校生になったある日の新聞折込チラシの中に、近くの教会案内が入って

きました。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
     わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11章28節)

 

という聖書の言葉が書いてありました。まるで出口の見えない真っ暗なトンネルの中に

入っているように感じていた私は、「休ませてあげます」という言葉に私の悩みに答えが

与えられるのを期待して初めて教会の門をくぐりました。

 「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記 1章1節)

 

  聖書では人間は本来、神と交わりのできるものとして創造され、神は人間を愛して下さり

豊かな人生を歩むように望んでおられるというのです。しかし、人間が神の愛のうちを

生きていないのは神に背を向けて自分本位に生きているからであると知りました。これを

聖書では神に対する人間の罪と言い、確かに私の内にもこの罪があるのです。

「神様助けて下さい」と何か困った時に思わず叫んだことはあっても、創造主である神に

ついては全く知ろうとしたこともありませんでした。愛してくださる神を見失った人生は、

虚しく、生きる意味を見つけられないのです。ところが、この罪をゆるして愛と希望のある

人生を与える為に神の子であるイエス・キリストは私の身代わりとして十字架の上で罰を

受けてくださったのでした。私のような身勝手なものを愛して下さるこの方を、救い主

として信じたその時、私の目から大粒の涙があふれ出てしばらく止まりませんでした。

長い間、何の為に生きるのか分からずに悩み苦しみ、死の恐れにおののいていた私にとって

生きることは重荷でした。しかし今はイエス・キリストを罪よりの救い主と信じ、神と共に

歩む希望のある人生を生きています。

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